礼一の軌跡(あしあと) −ニューヨークの奇跡−

(1)


 ニューヨークのラ・ガーディア空港に着いた二人を出迎えた、ミスター・ベンサソンという男性は、60歳過ぎの垢抜けた、見るからに紳士的な男性だった。
 麻子はニューヨークの空港に着いて、初めて会うこの男性を、どうして見つければいいのか前もって電話で本人に尋ねたが、細身の長身で多少はダンディーなんですが、もう髪も口髭も白髪ですよ。こんな感じの男はそんなにはいないでしょうから、多分すぐにわかるでしょう。― そう言って電話の向こうで笑っていたが、確かに空港の出口をでると、ひと目で当人と分かる男が立っていた。
 ただ、電話の応対からもその人柄は大体想像していたが、実際に目の前に現れたこの男性は、知的な顔をしている上に、話し方も振舞いも非常に上品な紳士で、麻子とスミレは、これまで相手にしたことのないような人物を相手にすることに、多少の気後れを感じてしまうほどだった。
 「来て頂けるという電話をいただいた時には、内心ほッとしました。もし来ていただけなければ、こちらから出向くことも考えていたのですが、これでレイに顔向けができるというもんです・・・。」
 ミスター・ベンサソンは嬉しそうにそう言って麻子に握手を求め、それからスミレの方をマジマジと見て、なんとこれは美しいお嬢さんだ。レイがここにいたら、さぞかし喜んで、自慢するだろうに。― そう言ってスミレを抱き寄せ、頬に軽くキスをしたが、スミレの方は、突然そんな挨拶の仕方をされるとは思っていなかったようで、暫くは戸惑ったようにキョトンとしていたが、ちらっと麻子の方を見た顔は満更でもなさそうだった。
 「お呼び立てした理由については、説明するのに少々時間が必要ですから、それはゆっくりするとして、まずはマンハッタンまでお連れします。」
 ミスター・ベンサソンはそう言うと、二人の荷物を空港のポーターに持たせ、駐車場の方を指差し歩き出した。



 東京という街に多くの地方の日本人が憧れるように、ニューヨークもまた、多くの地方のアメリカ人にとって憧れの街であることに変わりはない。
 麻子にとっては、ニューヨークに来たのはこれで3度目だったが、スミレは、ニューヨークを飛び越えてヨーロッパには行ったことがあるが、ニューヨークに来たのはこれが初めてで、ニューヨークに行くことだけに関しては、スミレはロス・エンジェルスの空港を飛び立つ前から、ニューヨークに憧れを抱く地方のアメリカ人と同じように、非常に大きな期待を持っていた様子だった。
 ミスター・ベンサソンの運転する車が、イースト・リバーに架かるマンハッタン・ブリッジに差し掛かり、ロワー・マンハッタンのビル群やエンパイヤーステート・ビルを真近に望めるようになると、やっとスミレもニューヨークに来た実感がわいてきたのか、しきりに麻子に話しかけるようになっていた。
 「お嬢さん。本当は左側に見えるあのブルックリン・ブリッジを渡ってあげたかったんですが、先にお二人をお連れしたい場所があって、そこに行くにはこちらの橋の方が便利なもので、今日はこちらの橋を渡らせてもらいましたが、あっちの橋は帰りの時にでも渡って、途中どこかで止まって差しあげましょう。」
 ミスター・ベンサソンはそう言って済まなそうな顔をした。
 ブルックリン・ブリッジはマンハッタン・ブリッジよりも少し下流にあり、イースト・リバーに最初に掛けられた、その当時としては世界最長の鉄製の吊橋で、この橋の上から見るマンハッタンの眺望は素晴らしく、有名な観光スポットになっているのだが、どちらかというとこの橋は、ロワー・マンハッタンのビジネス街に抜けるにはいいが、それよりも北のグリニッジビレッジやソーホーに抜けるには、マンハッタン・ブリッジの方が都合がいい。
 ブルックリン・ブリッジを渡ってマンハッタンを見ることを、スミレも少し期待はしていたが、それよりも、自分達を先に連れて行きたいところがある。― そういう言われては仕方がないと思った。

 車は橋を降りると、左手にチャイナ・タウンを見ながらブロードウェイまで出て、そこからソーホー地区を通り過ぎてニューヨーク大学のところまで行き、左に折れた。
 すると正面に少し大きな公園があり、ミスター・ベンサソンは車を公園の北側の通りに回すと、公園内に建つ大きな門の近くで車を止めた。
 「ここはワシントン・スクウェアー・パークという公園で、ごらんなさい、公園の中ほどにある、あの円形に窪んだ広場では、いつもああして大勢の大同芸人やストリート・ミュージシャンなどが、パホーマンスを繰り広げていて、ここは若者には人気のある場所なんですが、実は、私はここで初めてレイに会ったんです。もう二十数年前になりますが・・・。」
 麻子は、二十数年前ここで会った。― その言葉を聞いて動揺した。だとしたら、自分が一生懸命に礼一の居場所を探していた時、礼一はニューヨークに来ていたことになる。
 「あの頃、私が始めた小さなギャラリーは、そこのソーホーにありましてね。この公園には、昼食を取ったり息抜きに来たりよくしていたのですが、あれは確か夏の終わり頃だったでしょうか。そこに門がありますね。あれはワシントン・アーチといって、ワシントン大統領就任100年を記念して建てられた門なんですが、あのアーチのところで、日差しを避けるようにして座っているアジア系の男性が目につきました。足元に何枚かの絵を並べていたので、私も商売柄のぞいてみる気になったのですが。」
 ミスター・ベンサソンは懐かしそうな顔をして、アーチの方を見ながらそう言った。
 「最初は中国人かと思いましたよ。・・・それで、片言の中国語で挨拶をしてみたのですが、彼は、私は日本人だ。― と、はっきり切りかえされましたよ。私には中国人でも日本人でもどちらでもよかったのですが、彼には誇りがあったのでしょう。・・・ハハハ。私にはその時のレイのふてくされていた顔が忘れられません。後で、どうしてあの時はあんなに不機嫌だったか訪ねたら、二日間ろくなものを食べてなくて、腹が減っていた。― そう言ってました。」
 ミスター・ベンサソンはよほどその時の礼一の顔が可笑しかったのだろう、暫くアーチの方を見ながら一人でニヤついていた。

 「・・・ただ、彼が地べたに無造作に並べていた絵を見た時には、これは・・・。― と思いましたよ。ニューヨークの街角の風景やパレード。それから、そこにいるような大道芸人達を、スケッチブックに色鉛筆だけで書いて、粗末な額に入れて2、30ドルの値段を付けて売っていたのですが、色鉛筆だけ使った作品にしては、非常に魅力的で引き付けるものがありました。・・・私はどうして色鉛筆だけ使って描いたのか、彼に尋ねたんですが、レイは、お金がないからそんなものしか買えないんだ。― そう言ってました。二日間ろくなものを食べていないと言うくらいですから、確かに他の画材を買うお金は無かったんでしょう。」
 確か礼一は、家を出た時に3千ドル位のお金を、私が困るだろうからと置手紙と一緒に置いて出た。・・・ということは、礼一自身の手元には、そんなにお金が無かったのか・・・。― 麻子は、お人好しなとこがあった礼一の性格を思い出していた。
 「それから私はレイに、ここにある絵、全てを買い取ってあげるから、よかったら私のギャラリーに来ないか。― そう誘いました。すると彼は私の顔を見て驚いた顔をしていましたが、急に立ち上がると、さっさと片付けて、行こう。― そう言うんです。・・・ハハハ。これは本人には聞いていませんが、たぶん絵が売れたことより、それで食事にありつけることの方が嬉しかったんじゃないですかね。でも本当に嬉しそうでしたよ。・・・そういう訳ですから、私とレイの付き合いは、この公園が始まりでした。」
 「あのゥ・・・。お話はよくわかりましたが、その・・・。礼一と初めて会った年が、いつ頃だったか覚えていらっしゃいますか。」
 麻子は、礼一がロス・エンジェルスから姿を消して、真っ直ぐにニューヨークに来たのか、どうしても確かめたかった。」
 「レイと初めてここで会った年ですか・・・。ええ、勿論よおく覚えていますよ。なにせあのベトナム戦争の終わった翌年でしたから、1976年でした。」
 「あァ・・・、やっぱりそうだったんですか。」
 ミスター・ベンサソンは、ロス・エンジェルスでのことを礼一から何か聞かされたことがあるのだろう、麻子が驚きの声をあげた時、麻子の顔を直視しようとはしなかった。

 「・・・本人がいませんので、あの頃のことについては、私がご説明しなければならないのですが、ただ、じゅうぶん理解していただくためにも、順序立てて説明しないとうまく伝わらないと思いますので・・・。」
 「失礼ですが。私が説明するとおっしゃるからには、あの頃の私と礼一のことを、あなたはご存知なんですか。」
 「えッ。・・・ええ、まァ・・・、大体のことはレイから聞いています。・・・ただ、それをかいつまんで説明することはできません。」
 そうなのか。― と麻子は思ったが、この人が知っているのは、ロス・エンジェルスでの礼一と私の関係だけで、まさかそれ以後のことまでは知らないだろうと思った。
 「あの頃私のギャラリーは、ここから4ブロックばかり下がった、ソーホーのグリーン・ストリートにありましてね。ちょうどあそこに見える、大学の校舎の向こう側になるんですが。・・・あの当時は、ソーホー一帯は家賃も安くて住みやすい場所でした。大体ソーホーというところは、アーティストやデザイナーやミュージシャン達が、空き家になった工場や倉庫を安い家賃で借り受け、創作の場所にしたことから人気が出て、同じような人間が集まるようになったんですが、勿論私も画商としては駆け出しでしたから、自然と彼らにつられてここで店を始めたわけです。・・・まァ、そんな訳でしたから、私がレイと会った頃は、私にはそれほど良い画家は付いていませんでした。ですから自分で、これは。― と思う作品を描く人間に出会うと、こちらから積極的にアプローチしたもんです。・・・ハハハ。レイを私のギャラリーに連れていった時には、あまりぱっとしない店だったせいか、最初は私の顔を疑り深そうな目で見ていましたよ。」
 そこまで話すと、ミスター・ベンサソンは、これからちょっと私の店だった場所まで行ってみましょう。― そう言って、車を走らせた。

 ミスター・ベンサソンの話だと、1980年代に入り、ソーホーにあるギャラリーやライブハウスが脚光を浴びるようになると、今度は観光客までが入り込むような、喧騒のある場所に変わっていったらしい。家賃も地価も上がり始め、ソーホーで活動していたアーティスト達も、次第にここを出て他のもっと暮らしやすい地区に移って行ったようだった。
 「御覧なさい。今は高級なギャラリーを誰かが開いているようですが、一番最初にここにギャラリーを開いたのは私です。この店を見てもわかるでしょう。ソーホーはすっかり変わってしまった。ここにあるようなギャラリーや、高級なレストランまである場所になってしまって・・・。私はこの店を12年前に売って、今はもっと上のチェルシーという地区に店を開いていますが、以前のマンハッタンの、のどかだった地区はどんどんなくなっていく。今私が店を開いているチェルシーでさえ、最近では最新アートの発祥地と呼ばれていますが、私には魅力の無い場所に変わりつつある。」
 グリーン・ストリートの、以前自分の店だったという建物の前に車を止めると、ミスター・ベンサソンは店を見ながらそう言って溜息をついた。
 「私はレイをここまで連れてくると、まず食事を取らせました。チャイニーズ・タウンがすぐそこなもので、チャイニーズ・フードなら同じアジア人なので口に合うと思い、買って来て食べさせたのですが、よほど腹が減っていたとみえて、いやはや、驚くような食欲でした。しかしそれを見て、これはよほど長い間我慢を続けていたんだろうとつくづく思いましたよ。・・・それから、今どこに住んでいるのか訪ねましたが。・・・確か、54だか55丁目とブロード・ウェイが交わる近くの、バックパッカーズとかいう安宿のドミトリーに泊まっていると言っていました。そしてそこを中心に、セントラル・パークやタイムズ・スクウェアーや、さっき行ったワシントン・スクウェアーなどで絵を描きながら売って、なんとか生活しているという話でした。」
 その話は、麻子には想像しにくいものだった。ロス・エンジェルスに住んでいた頃の礼一からは、どう考えてもそんな落ちぶれた生活が出来るとは思えなかった。

 「ニューヨークにはいつ来たのか聞いたのですが、確か3ヶ月少し前だと言っていたと思います。ニューヨークには当ても無く衝動的に来たらしく、最初の頃は手っ取り早く日本食のレストランで働いて食い繋ごうとしたようですが、自分の性には合わなかったようで、それからは仕事を探すことで相当苦労したようです。目的をはっきりさせないで知らない場所に飛び込んでも、物事は希望通りに決して進まない。― そうしみじみ言っていたのを覚えていますよ。・・・ただ、私はてっきりニューヨークには、絵の腕を磨くために来たものだと思っていましたから、本人から、これまで絵を専門に学んだことはない。― そう聞かされた時には驚きました。・・・それで、ではどうしてこんな絵が描けるのか聞いたのですが、建築のデザインの方をやっていたので、描くことはそっちでやっていただけで、大したもんじゃない。― そう言う返事で、少し納得はしましたがね。」
 礼一とロス・エンジェルスで暮らしていた頃、礼一の描いたデッサンやデザイン画には、感心させられたことが何度もあって、この人は絵の道に進んだ方がいいのではないか。― そう思ったことが麻子にもあった。芸術にはうといと思っている麻子でも、礼一の描いたものを見ただけで感じるものがあった位だから、やはり非凡な才能が礼一には備わっていたのだろう。
 「・・・ですが、私も確かに駆け出しでしたが、持っている才能を見抜く位の力はあったつもりです。それで、もしよかったら私がスポンサーになるから、暫くの間ここで絵を本格的に学んでみないかと進めました。レイの作品は版画に適していると思いましたからね。私の知っている画家の中に、版画をやっている者が何人かいまして、彼らに付かせて技法を学ばせれば、きっとモノになると思ったんです。」
 「版画ですか・・・。版画って、あのヒロ・ヤマガタやラッセンが有名な・・・。」
 それまで黙って話を聞いているだけだったスミレが声を掛けてきて、麻子は驚いて振り返ったが、スミレは何かに感動したような顔をして立っていた。
 「ええ、お嬢さん。よくご存知ですね。版画の技法にも色々ありましてね。シルクスクリーンやリトグラフは有名ですが、最近ではミックスドメディアなんて方法もあります。一枚の下絵から、色んな方法で作品にしていくのですが、レイの描く作品は色使いが素晴らしいのと、柔らかくて優しいタッチの作風が特徴でしたから、版画に一番合っていると思ったんです。今私のギャラリーに、ワシントン・スクウェアーでレイが売っていた、色鉛筆で描いたものが何枚か残してありますからお見せしますが、セントラル・パークでリスと遊ぶ少年を描いたものなんて、レイの人を見る目の優しさが本当に良く出ていて、感心しますよ。」

 それからミスター・ベンサソンは、車で二人にソーホーを案内すると、チェルシーのウエスト24丁目にあるホテルまで、二人を連れて行った。
 まだ太陽は西の空にあり明るかったが、時計を見るとすでに7時を回っていた。この日の朝、ロス・エンジェルスを8時に発つシャトル便に乗ったが、西海岸と東海岸では時差が3時間ある上に、フライト時間が5時間半掛かっていたから、ニューヨークに着いて空港を出た時には夕方の5時近かった。
 「今日はここでお休み下さい。ホテルにはこちらが全て話をつけてありますから、何も気になさらないで結構です。本当は今日、もっと色々お話できればいいのですが、あまりにも沢山のことをお伝えしなければならないので、明日改めてお話します。私のギャラリーはここから車で2分もかからない所ですから、明日の朝10時にお迎えにあがります。」
 ミスター・ベンサソンはそう言って帰っていった。
 その夜、麻子もスミレもなかなか寝付かれないで、麻子が仕方なしにベッドから出て、一人でニューヨークの夜景を窓際から眺めていると、スミレも起き出してきて麻子の側に並んだ。
 「マミー、私のお父さんだった人って、どんな感じの人だったの。顔は私に似てたの・・・。」
 「そうねェ・・・。」
 スミレから礼一のことを聞かれるのは、これが初めてだと麻子は思った。
 「あなたの目と鼻はお父さん似だと思うわ。若い頃の礼一は、優しい目をしたスラッとした男だったわね。家事もよく手伝ってくれたし、私のわがままも黙ってよく聞いてくれたわ。」
 「へェ―、そう・・・。」
 窓の外に広がるニューヨークの夜景を見ながら、この二十数年間、この街の中で礼一が暮らして来たということが、麻子にはなかなか信じられなかった。礼一が毎日のように見ていたであろう、窓から見えるエンパイアーステートビルや、遠くに見えるタイムズ・スクウェアーのネオンサインを、今になって同じように見ている自分が悲しくもあった。



 翌朝、ミスター・ベンサソンは10時ぴったりに二人を迎えに来た。
 ロビーで待っていた麻子とスミレに挨拶をすると、夕べはよく眠れたか訪ね、麻子が二人ともなかなか寝付かれなくて、夜遅くまで色んなことを話していた。― と話すと、さも納得したように首を何度か縦に振り、それから二人に朝食は済ませたか聞いてきたので、まだ時差のせいでお腹がすいてない。― と麻子が答えると、では私の店に行きましょう。近くにはレストランもあるし、イギリス風にブランチもいいでしょう。― そう言って二人を車に乗せて走り出したが、1マイルも走らないうちに車は古い倉庫のような建物の前で止まった。
 そこは21丁目と10番街の角から、少しハドソン川に寄った場所で、周りには同じようなレンガ造りの倉庫のような建物が、ハドソン川沿いを中心にずっと向こうの方まで並んでいたが、よく見ると、内部はどれもこれもギャラリーに改造されていて、ここから27丁目あたりまでの10番街や11番街のほとんどの建物はギャラリーだと教えられた。
 「私が初めて店を出した頃のソーホーもそうでしたが、ここもほんの10年前までは、老巧化した倉庫が立ち並ぶ侘しいとこでした。それが今では、短期間でギャラリーの数がどれだけあるかわからないほどの変貌を遂げている。まァ、ここに越して来た仲間の多くは、私と同様にソーホーからでしょうがね。」
 ミスター・ベンサソンはそう言って笑うと、車から降りて、大きな建物に二つあるドアの右側のドアのところまで行き、二人を手招きした。よく見ると、倉庫だったこの建物は、中が二つに分かれていて、右半分だけが彼のギャラリーのようだった。。
 麻子とスミレは呼ばれて車から降りたが、暫くは辺りを不思議そうに眺めていた。通りだけ見渡すと、レンガ造りの古い地味な雰囲気しかない場所なのに、建物の中のギャラリーに目をやると、ウインドー越にそれぞれが個性的な別世界の空間になっているのがよくわかった。それに、まさかこんなところから最新のアートが生まれていようとは、意外でもあった。
 
 「どうしました。何かありましたか・・・。」
 呼んでもなかなか来ない二人を気にして、ミスター・ベンサソンは車の方に帰りかけようとしたが、麻子が驚いたような顔をしてスミレを急かすのを見て、彼はドアを開けて二人が来るのを待った。
 「ようこそ、我がコレクション・ハウスへ。ここにはお二人の特別な人の作品が沢山あります。・・・しかしその前に、二階の私の事務所にお上がり下さい。私の家内が、あなたがた二人を首を長くしてお待ちしていますから。」
 彼はそう言うと、二人に付いて来るように言って階段を上り始めた。
 麻子は、外観からは想像もつかないくらいきれいに改装された店内を見渡しながら、この中の何枚かの絵が、もしかしたら礼一の作品なんだろうかと想像を廻らしながら、階段を付いて上がった。
 そして、三人が二階まで上がりきった時、フロアーの奥半分を仕切る壁にあるドアの内、オフィースというプレートの付いたドアが開き、中から麻子よりも少し年上で、さぞかし若かった頃は美しい人だったんではないかと思える、長身の婦人が出てきて、感動したような素振りをして二人を迎えた。
 「あァ・・・、やっと来てくれましたね。この日が来ることを、私はどれだけ待ったことか・・・。」
 そう言って、麻子に手を差し伸べてきた時には、すでに彼女の目は潤んでいた。
 「エリー。この人の名前はアサコさんと言うんだ。それから、紹介します。私の妻のエリーです。・・・レイの、もう一人の良き理解者でもあります。」
 「エリーです。本当によく来てくださいました。お会いできる日を、何年もまえから待っていたんですのよ。」
 麻子には、彼女がどうしてこんなにも自分達を感激して迎えてくれるのか、その意味がわからず、ただ笑って応えるしかなかった。

 「エリー。この人が、レイのお嬢さんのスミレさんだよ。」
 麻子と妻のエリーを紹介し終えると、ミスター・ベンサソンは後ろで黙って立っていたスミレを前に出し、紹介した。
 すると彼女は、暫くスミレの顔をじっと見ていたが、堪えきれなくなったようにスミレに近づくと、両手を広げスミレを抱きしめた。
 「あァ、なんてことでしょう。小さなお嬢さんというイメージばかりで想像していたのに、こんな美れいなお嬢さんになっていたなんて・・・。あなたのお父さんが見たら、どんなに喜んだことでしょう・・・。もっと顔をよく見せてちょうだい。」
 彼女はそう言うと、スミレの両肩に手を添えて、優しい眼差しで見つめていたが、その目には、もう止めようのないほどの泪が溢れていた。
 「あれほど素晴らしい人だったのに、神様はなんて皮肉な試練をレイに与えたんでしょう・・・。」
 スミレは何がなんだかわからずにいた。この婦人が言っていることは、自分の本当の父親のいったいどんなところを指していっているのか。どうしてここまで自分のことで感動しているのか。スミレはただ戸惑った顔をして立ち尽くしていた。
 「お嬢さん、申し訳ありません。家内は本当にお二人が来られることを、ずっと以前から待ち望んでいたもので、つい取り乱してしまいまして・・・。」
 そう言うと、ミスター・ベンサソンは彼女を抱き寄せ、ハンカチを差し出した。
 「さァ・・・、もう大丈夫かい。お二人にはまだ全てをお話ししてはいないんだから、君がそんなことでは驚かれてしまうよ・・・。」
 ミスター・ベンサソンからそう言われて、彼女もやっと冷静にならないとと思ったようで、そうでしたね。まだこれからお話するんですものね。お嬢さんの顔を見たら嬉しくて・・・。きっと驚いたでしょうね、ごめんなさい・・・。― そう言うと、スミレの手を取って事務所の中まで連れて行き、ソファーに座らせると、今美味しいコーヒーを入れるから待ってて。― と言って、うきうきした後姿で奥の部屋に消えた。

 そんなパートナーの姿を、ミスター・ベンサソンは満足げな顔で見ていたが、麻子にもソファーを勧めると、鍵の掛かった部屋のドアを開け、中から額に入った三枚の絵を持って出てきて、麻子とスミレの前のテーブルに並べた。
 「これが、私が初めてレイとあのワシントン・スクウェアーで会った時、レイから買った作品です。本当は五枚あったのですが、ある人物がどうしても売ってくれないかと言うもので、二枚はそちらに今はあります。・・・どうです、昨日話したこのリスと遊ぶ少年の絵。レイの優しさが溢れ出ていると思いませんか。」
 絵を見た時、その絵が礼一の描いたものだということは、麻子にはすぐにわかった。昔一緒に暮らしていた頃に見慣れた、礼一のタッチそのものだった。素朴で純粋で、誰に対してもいつも優しく接していた、あの頃の礼一でないと描けない絵だと麻子は思った。
 だがその反面、自分を裏切って黙って出て行った男が、ニューヨークにまで来てこんなものを描けたことが、麻子には理解できなかった。
 「この絵から始まって、レイは本当によく努力しました。日本に居た頃は、建築の難しいライセンスも取っていたらしいですね。頭の良い人だったからでしょう、飲み込みも早かった。丸4年経つ頃には、ソーホーの私のギャラリーで個展を開くまでになりましてね。勿論私も、自分の見る目が正しかったことに満足していましたが。ただ・・・。」
 「あら、お話中ごめんなさい。昔話をする前に、コーヒーを出させてくださいな。スミレ、クッキーはお好き。」
 その時ミセス・ベンサソンが、コーヒーとクッキーの入ったバスケットを持って入ってきたので、急に話の腰を折られたミスター・ベンサソンは、麻子の顔を見て困った顔をして笑ったが、ミセス・ベンサソンはお構いなしにコーヒーカップとクッキーの入ったバスケットをテーブルに並べると、スミレの側に行き腰を下ろした。

 「ただ、個展を開くための作品の数も揃い、粗方の準備も整って、あとはうまくニューヨークのマスコミや美術関係者を招待できればと思っていた矢先、レイがロス・エンジェルスに行きたいと言い出しましてね・・・。」
 「えッ・・・、ロスにですか。ロスに礼一が、ですか・・・。」
 それは思っても見なかったことだった。
 「えェ。どうしてもロスに行って確かめたいことがある。そう言うものですから、私もあえて反対はしませんでしたが、ただ、それ以上のことは何も話してくれませんでした。」
 「では、礼一はその時ロスまで来たんですね。」
 ミスター・ベンサソンは小さく頷いた。
 礼一が、あれからロスに来ていた。― それは麻子にとって信じがたい話であり、許しがたい話でもあった。気持ちの整理が出来てからは、礼一がロスに戻って来ることはもうないだろう。― そう自分に言い聞かせて、礼一のことを消し去ろうと努力したのだ。
 「確か1週間くらい行っていたと思いますが、ロスから帰って来た時には、相当落ち込んでいましてね。私も家内も、その変わり様に驚いてしまって、何度もどうしたのか聞いてみたのですが、レイは何も教えてくれませんでした。それに、個展も当分したくないと言い出す始末で・・・。」
 「そうでしたね・・・。3ヶ月くらい何もせず、毎日物思いに耽っているようだったわ・・・。結局個展が開けたのも、半年経ってからでしたものね。・・・それも半年経って、名前までラスと変えて発表すると言い出したんですよ。」
 「えッ、ラスですか・・・。ラスって、もしかしてあのラスのこと。」
 スミレが興奮した声で聞き返した。
 

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